労働教に馴染めずうつになった男、みそじです。
働けよニートと言われそうな”クソ”タイトルですが、私は本気です。
A型作業所をやめて、自由な時間を手に入れて、うつな自分も回復して、「さぁ仕事するぞ」って思ったとき、労働に対する違和感というか気持ち悪さみたいなものが拭えませんでした。
まぁそもそも私自身のスキルが低いので、もし就職できたとしても作業員が精々だろうな・・・という諦めもあります。
そんなことを考えてたら、労働と新興宗教と何が違うの?と疑問ばかりでてしまいました。労働を盲信してる人って、労働教っていう宗教にハマってるだけではないかと。
労働教と新興宗教の共通点を探って行こうと思います。
新興宗教ってなに?
新宗教(しんしゅうきょう、英: New religious movement)とは、伝統宗教と比べて比較的成立時期が新しい宗教のこと。国ごとに言葉の意味や捉え方が異なる。新興宗教(しんこうしゅうきょう)とも呼ばれる。 出典:wikipedia
ざっくり書けば、明治以降に成立した新しい宗教のこと
新興宗教が成立する典型的なパターンは、創始者の天啓やら謎のパワーから信者があつまり組織団体として成立。その後は信者からのお布施と布教で大きくなっていく。
神様を出汁にして、上の人間が美味しい部分を全部飲み干す詐欺集団、と思う人が多いのが現状だ(だいたい事実だと思うが)
新興宗教の数は現在400教団、グローバル化の影響なのか、大きいところは日本の〇〇支部が沢山あるぐらいの信者がいる。
信者数を見てみると1位は1000万人を突破している。ひとつの国ができそうな人数だ。
労働の定義を明確にする
労働という概念ができたのは割と近代の話。
人間は古今東西、太古から現代にいたるまで、どの地域でも、何らかの生産活動により生きてきた。そうした生産活動を「労働」と解釈するようになったのは、近代以降である
出典:wikipedia
近代より前は、労働=悪としての側面が強い。
有名なところでは旧約聖書
人間が知恵を得たことに対する罰で、労働が課せられる。労働は労苦であり、それを乗り越えることが信仰の証であると定義された。
旧約聖書というのは人類最古のブラック企業の間違いではないだろうか?
労働至上主義は宗教と大差ない
私は労働している人間を貶したいわけではないことを先に明確にしておく。
労働と宗教は切っても切り離せない概念だ。日本は無宗教だと言われているが、入信率99%を達成している労働教をみると、まぎれもない宗教国家だと言わざるを得ない。
別に宗教が悪いとか、労働が悪いなんて思わない。そもそも宗教自体は肯定的な立場の人間だ。神様仏様も信じているし、人間の論理的規範は宗教が多大に貢献しているのは間違いない。
嫌なのが労働教を抜けたいとき、異教徒扱いとして攻撃されることだ。友人、親もそうだが、自分もその中に入る。自分が労働教に入信しているのに、自分主催の異端審問が実行されているのは、後世の人間からみると滑稽かもしれない。

労働教はカルト化している
ブラック企業にありがちなことを見て欲しい。
- 毎朝社訓を唱和
- 根性論を押し付ける
- 常に求人が出てる
- 何年働いても給料があがらない
- 残業代がでない
- 求人アピールがアットホームな職場
- 家族経営
- 希望や夢、やりがいといった精神が報酬
- 印象操作が得意etc・・・
一部例外はあるだろうが、大半はこんなものだろう
ブラック企業は洗脳がうまい。更に言うとトップの人間は労働教信者ではない。彼らの頭の中にはどうやってお金を取ろうかという考えしか存在しないし、労働教の信者は人間扱いされていないのだ。
・・・カルト宗教との違いはどこにあるのだろう?
組織のトップに対する絶対的帰依
カルト宗教お得意の手法として、創業者は神格化される。
教祖(経営者)相手に逆らってはいけない。
そして教団(企業)のためには、自分の全てを差し出して尽さなければいけない。
組織のためなら反社会的行動も容認する
カルト宗教の信者を支配するためには、反社会的な行動も容認される。
ブラック企業ならパワハラ行為や、詐欺のようなサービスを法外な値段で提供。
無理なノルマを課せられて、家族に自社製品を購入するように強要しないといけない。
閉鎖空間での長時間拘束
信者(労働者)を奴隷化させるには、一般的な常識や価値観を消す必要がある。
「こんなのどう考えてもおかしい」と思われたら困るからだ。
ブラック企業で話題になる、洗脳じみた研修が修行と揶揄されるのは当たり前である。
意味のない社訓をひたすら暗記させられたり、閉鎖空間で徹底的に人格否定されたあとに組織のルールを刷り込ませるのは、どれもカルト宗教お得意の洗脳だ。
集団心理による感覚破壊
洗脳するとき、集団心理を利用するのはよくある手法だ。
教育もある意味洗脳だし、学校という集団心理からパッシングを受けた経験がある人ならよくわかるだろう。
大人になれば疑問も持てるわけだが、相手も大人の戦い方をしてくる。
つまり金だ。組織に従わない人間は降格させられて、従うものが昇格させられる。
こうすればおかしいのは自分だと勝手に勘違いしてくれる。
無茶な要求も教祖(経営者)に気に入られるために信者(労働者)同士で熱心に競い合ってくれる。
離れてみると異様な光景としかいえない。
信者は貧乏 / 教祖は金持ち
宗教でも企業でもトップが金持ちというのは当たり前である。
問題は下の人間が極端に貧乏なことだ。
ここでいう貧乏というのはお金だけの問題ではない。
時間や人間的な情動すらも削り取って得られるのは僅かな金銭だけ
普通の人間なら割に合わないと思うだろう。
でも洗脳されたら精神的充実感という意味不明なもので満足するのだ。
・・・壺を買うのと大差ないと思う。

労働という新興宗教に入信している人達へ
繰り返すが、私は労働について否定的な人間ではないし、宗教についても同様だ。
だが、労働を神格化している人は、宗教に入っているのと大差がないという事実を知って欲しかった。
私は昔、よくあるブラック企業に内定して研修中に自殺未遂した。労働できなくて絶望した人間だ。そのあとうつ病と診断されて長い時間をかけて治していったが、今の自分から見るとあれはカルト教徒に入信した人間そのものだ。

「労働は神様ではない」「絶対的な価値観でもない」「働けないから人間ではないわけではない」
だからといって労働教に入ることそのものが悪いとは思わない。
人間には宗教が必要なのは歴史が証明している。問題なのはそれを宗教だと理解していない人達だ。異端認定して攻撃してくる人達に対して、自分も一緒に自分を攻撃しても意味はない。
あくまで宗派のひとつであり、ちょっと改宗しただけだと思えることが重要だ。
宗教のひとつを盲信してしまえば、それこそカルト教団と変わりがないではないか
ニート教への改宗
様々な現場を鑑みて、労働教に対抗するべくニート教なるものを設立してみた。
信者は自分ひとり、教祖は自分の超エコ宗教だ。
教義は単純。ブラック企業あるあるを全て逆にして教義として制定する。
というわけで、赤文字がニート教の教義になる。
- 組織のトップに対する絶対的帰依→労働者が神、組織のトップは奴隷
- 組織のためなら反社会的行動も容認する→組織のために反社会的な行動は許さない
- 閉鎖空間での長時間拘束→開放的な空間で短時間の労働
- 集団心理による感覚破壊→個人の感覚、感性を重視する
- 信者は貧乏 / 教祖は金持ち→信者は金持ち / 教祖は貧乏
割と模範的な教義ではないだろうか?
何にしろ今の所自分一人の新興宗教だ。教義なんてあとで付け足して変えればいい。
残念ながらお布施には期待できない。自力でなんとかするしかないのが悲しい所だが・・・